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江戸時代の人々は走ることができなかった!?

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「江戸時代の人々は走ることができなかった」その一文で本を手に取りました(笑)

今年に入って、身体、身、心…などの概念がどのように変化してきているのかを調べています。私たちが思っている身体と心の概念等々は、ほんの少し前の日本人とは大きく様変わりしているし、もっと昔になると、まったく違う世界が広がっています。

私たちの思っている当たり前は、当たり前じゃない。

さて、タイトルにある「江戸時代の人々は走ることができなった」ですが、もう少し丁寧にいうと、江戸の庶民は日常生活の中で走る必要も無かったし、現代人のようには走れなかったということです。

時代劇にあるような「てぇえへんだ、てぇへんだ~!!」といって走る光景はなかったんですかねぇ(笑)

武士や飛脚のような人は走る必要があったでしょうが、その走り方は私たちのそれとは随分違っていることは以前より指摘されています。

よく知られているのはナンバと言われる技法で手と足を一緒に出すような身体の使い方です。しかし、これもちょっとニュアンスが違って、右足が前に出る時に、右肩、右半身が前にでるという風が正しいようです。

私は昔、剣道をしていましたが、確かに構えの姿勢はそんな感じです。例えば畑を鍬で耕す時も同じです。今日は成人式が行われていましたが、時代劇などを見ていても、着物を着た女性が歩く期時に両手を太ももの前に軽く添えて歩いているのも、同じです。右足が前に出ると、右肩、右腰が前に出る。

つまり、手を振らないということ。これは無駄なエネルギーを使う不必要なことはやらないということです。

たしかに、剣道でも大きく腕を振り上げると隙が生まれてしまうし、余分な動きが生まれてしまいます。鍬も最初の事は振り上げていましたが、まぁこれが疲れる。結局、振り上げない使い方に変化してきました。

ここで、注目したいのはそのテクニックではなく、その背景にある、概念や文化などです。現代人の私たちとは全く違う捉え方や、考え方、身体技法が私たちの文化の中にあったということです。そうなると私たちが当たり前と思っていることが絶対的でもないし、疑う余地も十分ありそうです。

例えば、身体という言葉は古くは万葉集にも見られますが、その頃は人間存在の在り様の意味として使われています。

でも今の私たちは違います。
身体とはからだのことで、精神とは心のこと。

そんな風な見方が当たり前なってきたのは明治以降。bodyという翻訳語として身体が定着したという一節もありますが、少なくとも私たち現代人はこの翻訳語の身体の枠組の中でしか心や身体を捉えれないという現実があります。

心と身体という二元論的な視点から離れるために東洋思想が使われますが、それでも心と身体という表現を使ってしまっているということは、その根底に根強く枠組があるという事です。

今、ヨーガや瞑想などではしきりに筋肉の使い方や柔軟性、姿勢、深い呼吸などに焦点が当たっていますが、これもとても現代的なわけです。(確かに経典などには書かれていないしね)

これは私にとっても実は大きなジレンマです。
心と身体という表現を使うかぎり、どうやっても心と身体という二元論の枠組みに戻ってしまうわけですから。では他の言い方にすればいいのか?どうなんでしょう(笑)これは今年の大きなテーマの一つなので、もう少し時間をかけて文献などを紐解きつつ、自分実験を続けていきたいと思います。

 

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