2020年が始まりましたね。
今年はいったいどんな一年になるのか、楽しみやらドキドキやら(笑)
皆さまにとっても素晴らしい一年になりますように。
今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
自分と上手に関わる
これは私がヨーガセラピーを通してお伝えしているなかで、一番大切にしていることです。
私たちは自分が気づいている、いないにかかわらず多くの事柄と関わり合いながら、その網目の接点の一つとして存在しています。同時に、私という一人の人間の中にも、そうした網目があり、それらが相互に関わり合いながら存在しています。
私たちが自分の外側に向けて関わる関わり方と、自分自身へ向けての関わり方って実は同じパターンを繰り返していることが多いのです。
そうした「かかわり方」は自分にとっては当たり前で習慣的なことだったり、良いと思っていたりすることなので、気づいていないことが多いですが、それが自分を苦しめてしまう場合があります。であればまずは、一番身近で分かりやすい、自分の肉体や息を手掛かりに、自分自身との関わり方を見直すというのは、割と理にかなっている…そんな気がしませんか?
息との関わり方
あるクライアントさん(Aさん)に「息」のことを聞くといつもこうおっしゃっていました。
「ホント、私って呼吸が浅いんだなってつくづく思います…。」
ちょっとがっかり気味に言われたこの一言の中には
・呼吸は浅いより深い方が良いに決まっている
・私の呼吸は浅いからよくない
という思いが含まれています。続いて、
「あっ、私、またジャッジしていましたね…」
ここにも、
・ジャッジはしない方が良い
・ジャッジしてしまう私はよくない
・ついでに自分の呼吸は悪いと判断している
実はこの類の会話は100%の勢いで皆さんされます(笑)これは「呼吸」についての情報が溢れた悪しき結果かなぁなんて思ったりもしています。
ただ、ちょっと考えてみて欲しいんです。
良い「息」、悪い「息」って何でしょう?
何をもって「浅い」「深い」の基準があるのでしょう?
私たち「息」をしていないと死んじゃいます。言いかえれば、「息」が働いてくれるから生きていられるのです。
自分の自然な「息」を良くないと思っているその間も、健気に「息」は私たちを生かすためにせっせと吸ったり吐いたりしながら働いてくれています。
寝ていても、怒っていても、泣いていても、不安になっても、笑っていても、希望に満ち溢れていても、どんな時でも、「息」の働きのベクトルは生きる方向で、出来る限り精一杯のことをしてくれています。
にもかかわらず、自分の自然な「息」を認められない。これは、自分の生命のリズムを認められないことに繋がります。
Aさんは頑張って良い呼吸をしようと、当初はものっすごい不自然な呼吸で自然な「息」をコントロールしようとしていました。自分が持っている「息」という力に任せきれない…。そんな感じです。
一方でAさんは、他の人に対して「頼る」ということがとっても苦手でできませんでした。
もちろん、今までだって色んな人から「もっと頼っていいんだよ」などという言葉をかけてもらっていたと思いますが、迷惑をかけてはいけない、自分が頑張れば…という思いが先に立つので、そういわれても…という感じです。
自分自身の「息」にも頼る事ができなかったわけですから、当然、他人に頼るなんてできるわけありません。「息」と他人、これ関係あるの?と思われるかもしれませんが多いに関係があります。
「息」を通して自分を知る
ヨーガを始めた当初、まったく自然な息を受け入れることが無かったAさんですが、「息」の観察をとおして、次第に自分の「息」に興味を持って下さいました。
「息って色々あって面白いかも」
「リズムもペースもいつも違ってびっくり」
「息の動きを感じていると安心して落ち着く」
浅い、深いに関することや、自分の「息」にダメ出しをするような言葉は自然と言わなくなりました。
つまり
・呼吸に関するジャッジから離れたということ
・自分の自然な「息」にOKを出せるようになってきている
・そのままの「息」に少しだけ安心していられる
・そのままの自分に少しだけ安心していられる
ということです。
これは「息」という実際に行なっている行為に対して、体験として得た一つの気づきです。頭での理解ではなく、体験智です。
さて、このほんの小さな変化は次々と波及していきます。
他人に頼る事ができなかったAさん。ある日、デイケアに預けているお母さまを急遽病院に連れていかなくてはいけなくなりました。前もって分かっていれば、旦那さんに仕事を休んでもらってお母さんを病院に送るのですが、この時は急だったためそれもできません。
「病院まで車いすを押して私が連れていくしかない」
これが彼女の出した答えでした。
その旨をデイケアの方に伝えたら
「では病院まで送迎しますよ~」
と。
「えっ!?お願いしていいの??良かった~。」
と思われたそうです。
病院までは何とか無事にたどり着きましたが、診察の前におトイレをということで、お母さんのおトイレにつきそって、すったもんだで30分。
もう、ぐったりです。
そんな時、ふと、彼女の頭に浮かんだのは「頼ればいいんだ」という言葉。
Aさん自身はこの言葉が浮かんだことに驚かれたそうです。きちんとやらなくてはいけない、人に迷惑をかけてはいけない、自分が頑張ればいい、ずっとそういう風に生きてきたし、そういうもんだと思っていたのに。
そんな風に素直に思えたことが嬉しかったそうです。そしてなんで今まで頼ろうと思わなかったんだろう…と。
自分の「息」を観察を通して観ているのは、自分自身に対する関わり方です。観察=ただ気づくというこの行為は、何もしていないのではなく、自分自身に気づくともに自然な変化を生みだします。
そしてそれはそのまま、他人との関わりの中にも現れます。
Aさんは「息」を観察することで、「息」への関わり方が少し変わってきました。そのままの息に、つまり、そのままの自分にOKを出せれるようになってきたのです。それがたとえほんの少しであろうと、大きな意味があります。
浅い息の時には浅い息に気づき、
深い息の時には深い息に気づく。
きちんとできない時にはきちんとできない事に気づき、
きちんとできる時はきちんとできていることに気づく。
ただ気づく。自分を見守る。
OKを出す、もしくは自分を受け入れるというのはこういう感じです。
そしてそれが、ほんの少しできるようになった分だけ他者との関わり方にもほんの少し変化が現れてきたのです。
そのポテンシャルを最大限に引き出すために
Aさんにとって、この頑張れる力は資源です。頑張れることは悪いことではありません。大切なことはこの力をどう手綱さばきをして、ポテンシャルを最大限に引き出せるかということです。
Aさんの場合、とにかく頑張ってきました。でも闇雲に頑張る事が「頑張れる力」を上手に引き出すということではないのです。上手に引き出すためには頑張るとは逆とも思える「任せる・頼る」もしくは「手を抜く」という関わり方も一つの方法としてあるということです。
さて、ここまできて、気づいたんだから終わり…かというとまだ道半分。気づけば半分解決!の半分まできました。
「頼ればいいんだ!」までたどり着いてみて初めて気づいたことがあります。
「頼り方が分からない…。何をどうやって頼ればいいんだろう…」
そりゃそうです。今までしたことがないわけですから。でも安心してください。もう次のステップに入っています。だって今まで意識も及ばなかったところにいるわけですから。それだけまずは十分です。
私たちの行動のほとんどは習慣です。なので今後も、もしかしたら同じことを何回か繰り返してしまうかもしれません。でもそれは今までとは全く次元が違う繰り返しです。なぜならAさんは気づいたからです。
これからは、
どうやったらうまくできるのか、
自分が頼りたいときはどんな時か、
頼れるようになったら、どんなことができるようになっているのか、
そんなことをキーワードに日常生活で自分実験をしていく段階です。そして自分にとってのいい塩梅を探していく段階です。これが自分で自分の手綱をさばくというセルフコントロールです。
今年も「自分と上手に関わる」をテーマにアレコレやっていこうと思います。
みなさま、どうぞよろしくお願い申し上げます♪
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